英語の授業中、
猪里は、英和辞書の中に、
「 Love 」 の単語が、蛍光ペンそれもピンクに着色されているのを見つけた。

---だ、だ、誰ね?こげんこつしたとは!
   俺やないけんね!じぇったい俺やないけん!

引こうとしていた単語はぷっつりと頭から消え失せ、
代わりに浮かんだのは、八重歯の覗くあの笑顔だった。
一年のとき、虎鉄は自分のを紛失してしまったとかで、しょっちゅうこの辞書を借りに来た。
だから、真っ先に疑われてしかるべき人物なのだ。










アザレア









猪里は授業が終るなり、虎鉄を問いつめるべく席を立った。
今は同じクラス、しかも同じ班なので、数歩移動するだけで事は足りた。

「Oh、猪里チャン、授業終ってすぐ逢いに来てくれるなんて嬉しいZe。
 てか、我慢できなかったとKa?」
にへら~と相好を崩し、虎鉄は宣った。

「あほ!」
手に持った辞書で、バンダナの頭に一撃を喰らわせた。
「~~~~ッ!」
机に突っ伏し頭を抱えて悶絶する様を見届けると、
涼しい顔をして、しおり代わりにしていた人差し指を抜き、問題の箇所を開いて見せた。

「お前やろ、これ」
「目から星出たじゃねーKa……あ?ああ、たぶん……オレ」
「こん辞書、他の奴にも貸したとよ、俺。
 いーっぱい貸した。女子にも貸したこつあるっつぇ」
「……Ahー……」
「気持ち悪かヤツって思われとーよ、絶対!」
「や、そんなことないっTe。それに、見つかってないっTe」
「運悪ぅして見つかった時のことを言うとっと。
 ……なして、お前、こげん嫌がらせするとね?」
「嫌がらせじゃねーYo……」
「これが嫌がらせやなかったら、なんね?なんやて言うつもりね?」
矢継ぎ早な詰問に、虎鉄はハタと思い出した。
「それ、確か1年の時だYo。
 猪里から借りて、そんで、何て言うか、もやもやしTe……」
「もやもや……して?」
「うN、確かそうDa」
虎鉄は、休憩時間のざわめきに紛れるように、声を落とした。
「付き合いたいけど、告ったりしたら……
 そんなことしたら、やっぱ嫌われるのかNaって……
 で、気がついたら、線引いちゃってたんだYo。
 ……お前に Love っての、気付いて欲しかったのかもしんNaい」

猪里は、カーッと顔が赤くなる。
虎鉄は、俺からの質問には、誠心誠意答えようとする。
そして、いつだって素直に包み隠さず言うんだ。

虎鉄は、おもむろに立ち上がった。

「な、なんよ?」

腕を取られ、引き寄せられた。

「オレの片思い時代のシルシみたいなモンだRo。そんな怒んなYo」
耳に唇を寄せ、低く囁いた。

「……今は、両想い、だRo?」

耳に唇が触れ、思わず飛び退いた。

虎鉄の自信あり気な口元から八重歯がこぼれ、
いやがうえにも動悸が高まる。

「自惚れるんも、いい加減にしぃよ!」
意味不明だ。でも吐かずにいられなかった。
辞書を虎鉄の机に放り出し、踵を返した。

「おいおい、また夫婦ゲンカか~?」
「Hahaha、ま、そんなトコDa」

虎鉄と誰かの間の抜けた会話が背に聞こえたけれど、振り返らなかった。



教室を出て、闇雲に廊下を突き進んだ。

虎鉄の真っ直ぐさが好きだ。
しかし、その"真っ直ぐ"が、俺を翻弄する。
彼奴はそれを、俺の気持ちを、知ってるんだろうか?
知った上で、ああいうことをするんだろうか?

---いっちょんわからん。

自明なのは、あの目が語っていたこと。
「キスしたかったから、しTa。いけなかっTa?」と。


廊下の突き当たりは家庭科室だった。
胸の高鳴りを落ち着かせるように、一つ深く息を付き、
廊下の開いた窓から外を見遣ると、中庭が見渡せた。
ツツジが色鮮やで、同じ色をした「 Love 」の字を思い出した。

---俺も好いとう……ばってん、お前はずるかよ……
   怒っとうのわかっとったよな?
   なして、キスげなしたとかな……しかも教室やぞ……

虎鉄とはやはり、只の部活仲間で友達だったほうが良かったのだ、とふと思った。
一緒に白球を追い続ける仲間だったなら、こんなややこしい感情を抱かずに済んだのに。

同時に、最早後戻りなど出来ないということにも、気付いていた。

今は、知ってしまったから。
お互いが惹かれ合い、必要として大切に思う、そんな感情、
そして、
素肌で触れ合う心地よさ、彼に導かれ登りゆき、放つ気持ち良さをも。

後戻りは出来ない。

未だ熱く火照る耳を片手で被い、猪里は目を瞑る。

---こげんどきどきさせよる、虎鉄の悪いと。

夜の帳の中で、もっとすごいことだってしてるのに、
少し耳に口付けられたぐらいで、この動悸はおかしいんじゃないか。

---俺はおかしか……おかしか体になってしもうた……



「猪里、流石に早いな」
「一番乗りじゃん」
二人の男子生徒が、からかうように脇を通り抜けていった。

「えっ?……あ!」

---次、調理実習やった!

教室に戻ろうと振り返って、虎鉄と出会した。

「あわてんぼさんだNa、猪里は」
微笑んで、小さな包みを投げて寄越した。
「ほらYo」
それは、猪里のエプロンと三角巾だった。鞄を探って持って来てくれたらしい。

「猪里チャンお待ちかねの調理実習だRo?」
「……ありがと……」
言葉は出て来たものの、どんな顔をしていいのかわからなかった。

「さっきの、まだ怒ってんNo?」
辞書のことを言ってるのだろう、ちらと済まなそうな視線を投げて寄越した。

「いんや、怒ってなかよ」
「ホントNi?」
「怒ってないって言っとーやろ」
「なら、良いんだけDo」

---もうよか。そげんことより……責任とってもらうけん。

今夜どうやって目の前の虎を部屋に招き入れるか、思案する。

---ツツジが綺麗に咲いたとよ、ってのは、どうかいなね。

大家さん宅の庭先のツツジは、綺麗に剪定されていて、
ご近所のちょっとした名所となっていた。
この前虎鉄と通りかかった時はまだ固いつぼみだったのが、ここ二三日は綺麗に咲いていて、目を楽しませてくれていた。

帰り道、別れ際に「咲いたよ」と言ってみよう。
「咲いたNo?見たいNa 」と返ってくるだろう。

「何見てたNo?あ、ツツジ?」
「……うん」
先を越されて、笑みが漏れた。
「大家さんトコの、咲いTa?」
「うん、バリ綺麗かよ。見頃たい」
堪えきれなくなって、破顔してしまう。
「何?オレ、何かしTa?」
「いんや、ちょっとな」
「なんだYo、気になるJaん……見たいNa。今日、行ってE-?」
「よかよ」

クラスメイトが次々とエプロンや筆記用具を抱えてやって来て、
釣られるように教室に入った。

「家庭科のノート、コレだRo?」
「あ?うん、ありがと」
ノートとペンケースを手渡され、席に座ると、始業のチャイムが鳴った。

「今日なに作るんだっKe?」
「酢豚たい」
「Ge!酸っぱいんだRo?やだNaー」
「俺が内緒でちかっぱ砂糖入れちゃるけん、安心し」
しかめた顔が愛しくて、つい甘やかしてみたり。
「やTa!猪里大好Ki!Na、ついでに酢も抜いてくれYo」
「酢抜きの酢豚やら、聞いたことないけん」
今日も今日とて、いつもの会話にそれとなく紛れ込んだ「大好き」が聞けて、
こそばゆくも、なんとなく安心する。

教師があたふたとやって来て、調理の手順について説明が始まった。


開け放たれた窓から、五月の風が舞い込む。

ツツジが咲き誇っているのを再び眺めながら、
こんな安らぎが待っているのなら、翻弄されるのも悪くないと思った。



















2006.5.12 初出