ごぼ、ごぼ、ごぼ、

鼻から口から水が入って。
この小さな手を離してしまったら、お終いだと思った。
見えたのは、丸く切り取られた春の青空。
激しく波打つ水面越しに。










兄と弟









「…………!」

「猪里?」

「……ん……?」

「どげんした?お前うなされとったよ」

「……ああ、」

寝汗をかいたのを感じる。
触れ合っている素肌の温かさも。
前髪を触ってくる指を払いのけると、彼はふっと微笑んだ。

「夢でん見とったと?」
「ん……ガキん頃溺れたとよ。そん時の夢」
「溺れた?」
「近所の野井戸にな、落ちた弟を助けようとして」
「タケ?トシ?」
「猛臣たい」
「ふーん」
「……前の日、タケの誕生日やったとよ。
 強請って買うて貰うたロボット?あったやろ?なんとかマンとか、なんとかレンジャーとかの、
 ロボットなんやが、組み立てて戦闘機にもなったりする……、」
「おう、超合金とか言う?」
「そう、それたい、
 あれな、弟の手に余るシロモノやった。
 まだ上手ぅ扱いきらんやったとよ。
 ロボットから戦闘機に変えとぅても、なかなか出来んで、焦れて、仕舞いに怒って泣いて」
「ああ、俺も持っとったよ、確かにあれはちょこっとコツの要ったとばい」
「俺入学して間無しで、弟も入園して間無しで。
 半どんで帰りよったら、猛臣のソレ抱えて走って来よるとが見えたとよ……一本道の遠くに、
 俺見て真っ直ぐ走って来よったと……嬉しそうにしてな……俺に組み立てて欲しかったげな」
「家で待っとれば良かったとに」
「それが、急に立ち止まって、近所の畑の方じっと見よるな思うたら、入っていって、
 そこの野井戸覗き込んだったい……しゃがんで……、
 あれ?蓋の無かとやって、ざわっと胸騒ぎのしたとば、なんかなし覚えとう……、
 で、落ちたとよ」
「うわ、危なかー」
「俺、走って、ちかっぱ走って、」

彼の携帯が鳴った。
「はい……?ん?……おぅ、」
脂下がった笑顔。
たぶん、女から。


関西の大学に進んだ二つ上の先輩の、
この部屋を訪れるのは夏以来だった。
弾んだ声に背を向け、閉じられたカーテンをぼんやり眺めていると、
この窓の外に植わっているのは柿の木で、緑の葉が艶やかだったと思い出した。
夏で、
枝の間から大きな入道雲が見えて。
抱かれながら聞こえていた鳴蝉が、耳の奥でしゃんと響いたような気がして、
僅かに堪らないと感じた。

ここで拗ねてみせれば?
誰かと話しながら「悪かね」と目配せをくれる彼に。
……どんな顔をするだろう?
裸の胸に、所在無さげに頬を押しあててみるんだ。
空けた手で頭を撫でてくるだろうか?
肩を抱いてくるとか?
それとも、無視されるだろうか?

迫る寂寥感がそんな良からぬことを考えさせるんだっていうのは、わかってる。
『妬いとると?』
そんな囁きを期待してしまう俺は、間違いなくどうかしているのだし。

ベッドを抜け出て、服を着た。
何処へ行く?何処で待ち合わせ?何時に?
耳に入ってくる。
学ランのボタンを留め終わり、マフラーを首に巻いて鞄を持った。

「帰ると?」
携帯をぱしんと閉じた。
「うん」
「俺、来月の……成人式に出るけん、それまでおるとよ」
「……」
「また、会えるっちゃろ?」
「わからん」
「電話して?」
ジーンズに両足を突っ込み、履きながら立ち上がった。
「俺、受験生ばい?あんたごた暇人やなか」
「お前なら余裕やろが?
 卒業式の答辞もたぶんお前たい」
口の端だけに笑みを浮かべた。

この人はよくこんな笑い方をする。
まるで世の中の理全て知っているとでも言いたげな。


---仕掛けたのはあんた。
   嵌ったのは俺。


暇を告げ背を向けると、長い腕に絡め取られ、
頬に口付けられた。
構わず、ドアのノブを廻した。

「送っちゃろうか?」
「いや、よか」


外に出ると、真冬の夜空は澄み渡っていた。
迎えに来て欲しいと家人に頼もうか……携帯を取り出しかけて、止めた。
歩いて帰るのが良い。
頭なのか体なのか、そのどちらともなのか、冷やすには持って来いの外気。
褐返し色に染まった天の瞬く星々に目も奪われる。

途中バスに乗って、あとは夜道をひたすら歩いて、
家が近づいてくると、嫌でもあの野井戸が目に入って来る。
今も現役のそれは普段簡単な蓋が設えてあるけれど、
弟と俺が落ちた日、灌水のために蓋は外されていた。

月明かりに照らされているそれに、
引き寄せられ、抗うことも出来ず、俺はつと立ち止まった。

あれは、真昼だった。
春で、
長閑な真昼だった。


弟の小さな手は助けを求めて空を掴んで。

手を伸ばしてなんとか手繰り寄せることに成功するも、バランスを失い自分も落ちた。
確か……、
一緒に下校していた友達が助けを呼んでくれたお陰で俺達は事なきを得たのだった。
先に息を吹き返したのは猛臣で、
俺は父から人工呼吸を受けてどうにか意識を取り戻した。
水面越しに見えたあの丸い空は今生の見納めにはならなかったらしく、
霞がかって見えてきたのは、父の顔……安堵の涙に泣き濡れて。
ひとしきり吐いて、次に見えてきたのは、父と同じ色の瞳を持つ弟の顔だった。
その顔がぼんやりとくしゃくしゃに歪んで見えたのは、
弟がそんな顔をしたからだったのか、
それとも自分の瞳を覆った涙の所為だったのだろうか。

こんな……、
こんな小さな野井戸に二人して落ちたなんて。

二年か三年ぐらい経った夏、弟と下校が一緒になった時、此の場所に差し掛かって、
覚えているのかいないのか、ふと気になって聞いたことがある。
「あん時、何見とったとや?」
「んー?……かえる」
「は?蛙?ワクローね?」
「ううん、こんぐらい、ばりこまか黄緑色のかえる」
と言って親指と人差し指でその小ささを示した。
そんなちっぽけな蛙なんかの所為で、
ピカピカの超合金なんとかマンロボは今も深い水底に沈んだままなのかと俺は笑った。
弟は触れられたくなかった話題だったのか、むすっとして言った。
「にいちゃんに見せちゃろーて思ったったい」

あの時は救急車もサイレンを鳴らして来るわで大騒ぎになった。
弟は「風邪引くけん着替えに帰ろう」と祖母に言われても、
「にいちゃんといっしょにかえるけん」と言って聞かなかったばかりか、
意識の戻らない俺の足に縋って離れなかったらしい。
それならばと着替えを取りに帰って来た祖母を、
「兄の服を忘れているじゃないか」と激しくなじったりもしたそうだ。
いつだったか祖母が泣き笑いしながら言っていたのを思い出す。
「匡臣の目ぇ覚まさんけん、どげんなるとやろうかて、気が気やなかったとに、
 猛臣に『なして、にいちゃんのふくのなかとね?!』てえらい怒らるぅて、たまがってな、
 まちごーて俊臣の服持って来てしもぅたとよ!ばあちゃんおかしかよねぇ」

こんな処に立ち止まり、回想する羽目になろうとは。
でも、次々と、小さな弟は記憶の奥底から蘇って来て。

翌々日だったか落ち着きを取り戻した頃、
「あれ?お誕生日に買うたオモチャどこいったとね?」と母に聞かれ、
五才になったばかりの弟はすまなそうに酷く項垂れて答えたらしい。
「いどにおちたと」
いかにもな返答だ。
猛臣らしくて、笑える。
末の弟ならば、息を吹き返すと同時に「おれの!おれのロボ!」とか喚いて大騒ぎしただろうに。



しんとした冷気を振るわせ、メール着信の音が鳴った。

「明日映画行こう」

かじかむ指で「そんな暇ない」と返した。

送信完了の液晶の白さに目を射られる心地する。

---俺は……、
   いったい、何ばしょっと?
   何ばしたかとや?

飛んでいってしまった言葉を取り返したくて、
でも、それは叶えられる筈などなくて。

今日もそうだったのに。

---「家に来て」てメールの届いて、なして俺は来てしもぅたと?

   なして「もう会わん」て返せんと?
   何時になったらそげん返せると?

   何時になったら、俺は……!


もう嫌だ、終わりにしたいと彼にぶちまけたいのに、
言えない俺が悪いのだ。
次また同じようなメールが来たら、行ってしまうだろう俺は、弱くて悪い。

膝が崩れ折れる儘にしゃがみ込みたくなる衝動を堪え、
すぅと息を吸い込んだ。

「猛臣」

弟が埼玉に行ってから、久しく呼んでなかった名前。
声にはならなかったけれど、唇は名を呼ぶ形に動いて、
吐く息は白く、凛とした闇に溶けた。


---兄ちゃんな……
   あん時、死んでしまやぁ良かったとかも知れん。


とんだ死に損ないだと自嘲して、
消えてしまいたいと強く強く願っても、
もうこの野井戸は俺を飲み込んではくれないのに。


---なして助かってしもぅたと?

   死んでしまやぁ良かったとに……ほんなこつ、死んで……



唇を噛むも、鼻がひくついて、目が潤んでくる。
ふいと顔を上げ、家の方向を見遣る。
月明かりが照らす屋根、その家は、その人達は、俺の帰りを待っている。
何も知らずに。
仄かに灯る玄関灯は俺を導くだろう。
俺がさっきまで先輩の家にいて、そこで何をしていたかも知らずに。
遠く関東に居る弟も、何も知らない。

打ちひしがれて佇む。
酷い気分だ。
快楽を手に入れる切符は先輩からしか貰えないから、
夏以来のそれに飛びついたんだ、俺は。
でも、その代わりに、
良い孫、息子、兄である筈の俺は、あの部屋から出られないでいる。
あの人の腕に、足に、絡めとられ、
視線を己が体に縫い付けよとばかりに乱れ、悦び、喘いでいた。ついさっきまで。
簡単に抜け出せはしない。



でも、

声が。


「にいちゃん、」


びしょ濡れのまま二人して父に抱えられた時、
弟は何と言った?
父の首にしがみつき、泣きそうに顔を歪め、震える声で。


「にいちゃんありがと」


目を瞑ると聞こえてきそうだ。

父は目を丸くして「猛臣なありがとーて礼言いよると!えらかー!」と笑ったのだった。
俺もガキだったけど、弟はもっとガキだったのに。

些細なこと、例えば、お菓子の量、ブランコを使う順番、
誰が拾った石が一番かっこいいか、
父に抱っこして貰う順番、
そんなことで毎日三人で喧嘩していた、ガキだったのに。

蘇った幼い声が、この死にたいような最悪な気分を一瞬で払拭してくれ、
尚且つ、
保身などでは無く、蘇生できてよかったのだと思い至らしめて。

---……まるで呪文のごたる。



猛臣は聡くて、
その上、家族思いだ。

そうなのだ。
もし俺が死んでいたなら、
周りがどう言ったところで、
兄を死なせたと、弟は自分で自分を責めただろう。
たった五才で心から笑うことを止め、
自分で自分を潰してしまっただろう。

---だけん、死なんで良かやったばいね、

   俺は……兄ちゃんは。

弟のあの優しい笑み。
春の空に溶けていきそうな、
一心に駆けて来たこの道で風に舞っていた桜の花弁ような……
失せることなどあってはならない。
誰も奪えない。


メール着信。

「怒っとう?」


過ぎる横顔、
ヒールリフトを練習する足、
ずり下がったストッキングと舞い上がる砂埃、
頭上のボールと太陽、

……向けられた笑顔、

枝の間から見えた入道雲……

「怒っとらん もう会わんけん」

躊躇うな、押せ。

---ピッ。

電源を切り、手に心地よい重さのそれを今更ながら眺めて、
衝動に駆られた。

---こん野井戸に沈めちゃろうか……?

優しい言葉を期待しなくて済むように。
もう、声を聞かなくて済むように。
……これ以上掻き乱されることのないように。

親には怒られるだろう。
失くしたと嘘をつき、買い換えて貰うのはもの凄く気が引ける。
……けど、
沈めるなら今?

---今しかなかろぅもん?



「匡くん?こんばんは。寒かねぇ」

跳び上がる程に驚いた。
何時の間にか背後に近づいていた隣家のおばさんに、全く気が付かなかった。
「こんばんは。」
今時分に犬の散歩とは。
「猛くん、もうじき帰らっしゃるとね?」
「あぁ、29日に。友達連れて帰るげなです」
「そうねー、賑やかなお正月になるやろねぇ」

自失していた時間の長さに気付かされ、また歩き出す。

冷静に考えてみれば、携帯を沈めたところで無駄だなのだ。
彼は家の電話番号も知っていて、掛かって来たこともある。
交際範囲がやたら広くて寂しがり屋のあの人が、部の連絡網を捨てたとも考えにくい。

ならばせめて、このややこしい想いを沈めてしまおうか?
実際にそれが出来るかどうかは別として、
そうしたいんだ、俺は。
そうしなきゃいけないんだ、俺は。
溢れ出ることなどないように、しっかり蓋をして、
そして、そんなのは深い水底で、
弟のロボットと仲良くしてればいい。

水底で珪藻にまみれているだろうロボットを想像すると可笑しくて、なんだか少し楽になった。
携帯の電源を入れれば、また沢山の着信に悩まされる筈。
でも不思議ともう大丈夫だと思えた。

---ありがと、て言わないかんとは、兄ちゃんの方たい。


家に続く坂を上りきり、玄関の灯りが見えて。

今頃台所で忙しく立ち働いているだろう祖母は、
俺が生まれた時、初めての内孫だと喜んで、初節句は盛大にと譲らなかったらしい。
赤ん坊だった俺は全く覚えていないが、それは祖父が呆れる程の宴になったという。
「ひ孫の顔を見るまで頑張るけん」と張り切る祖母に正直勘弁してくれよと、
でも、喜ばせても罰は当たらんめぇもん、とも思う。
この庭に再び新品の鯉幟が薫風を受けはためくまで、後どれくらいの年月を必要とするのだろう。
祖母を喜ばせるのは、猛臣や俊臣のほうが適役かもしれない。


「ただいまー」


戸を開けると夕餉の匂いが否が応でも空腹を煽って、
死んでいれば良かったなどと一瞬でも思った自分が愚かに思えてきて。


---生まれ変わったら黄緑色のこまか蛙とか良かかもしれんな、子孫を残して死ぬだけの……

   ……もしも俺に来世があるとやったらの話やが。


速攻で思い付いたにしては、良い来世だと思いつつ框に上がった。


















よりぬきお題さん。(’04.6.4初出)