「長戸ー」
「はい」
篠井係長に呼ばれて馳せ参じると、
例のごとく営業成績と報告書について小言が始まった。
もう殆ど毎日のことだから、慣れた。








ずっとそばにいて








「……だからな、先方には俺が言っておくから」
「はい」
踵を返そうとして、呼び止められた。
「お?お前、結婚したのか?」
結婚指輪を嫌な奴に見つかった。してこなければ良かった。
「……はい」
「俺に報告もナシか?」
係長は声を落として聞いた。
「すみません」
それからは矢継早に最近の若いもんはなってないだの、
嘆かわしいだのと、また別の小言が始まる。
高1の時部活で3年生にいたよなこういう奴……思いながら遣り過す。
叱責の声が小さめなのは、部下に言ってはいけないことだと分かっているからだろう。
部下のプライベートに踏み込むのは昨今ではNGらしいから。
「結婚式は?」
「身内だけで済ませようと」
しまった。もう済ませたと言えば良かった。
「はあ?なんで?俺を呼ばない気か?」
「事実婚ですので、ご招待することはないと、」
「事実婚だと?お前みたいな活きの良い若いのがちゃんと籍入れないでどうするんだよ?」
ここからまた少子化に歯止めがかからないのはどうとか、説教を垂れる。
「嫁さんに子供3人ぐらい産んで貰えよ、わかったか?」
3人も養えるような給料貰ってないですから、なんて言い返したくなったけど、
ひたすらの生返事で遣り過した。

自販機でげっそりコーラ買って飲んでたら、同期の奴に話しかけられた。
「お疲れ、長戸」
「おう、お疲れ」
「ひでぇな、篠井」
「明日にでも移動になんねーかな、あいつ」
「はは、聞こえちゃったんだけどさ、結婚したんだって?」
「うん」
「おめでと」
「ありがと」
「いいなぁ……会社のコ?」
「違うよ」
「どんな人?」
「うーん、かわいいよ?」
「いいなぁ!てか長戸結婚したんなら、女子達がっかりするだろな」
「え?なにそれ?」
「モテる奴に限って自覚ないんだもんなあ……
 長戸が消えたってことで俺にチャンスが転がり込む…てことにはならんか!」
「はは、転がり込むってなんだよ」
「奥さんの写真とかないの?」
「……あるけど」
ガッツリあるけど、見せたくないっていうのが顔に出ていたらしい。
「見せらんない?」
「まあ、そうね」
「いいよ、わかるよ」
「ごめん」
「かわいいと尚更なー。畜生、いいなー」
 

携帯のアラームが鳴った。
また一日が始まる……またあの空間であの顔が……うるせえ……
---ちっ。
心の中で舌打ちして、
スヌーズ押して、寝返りを打った。
もう少しこのまま微睡んでいたい。
隣に横たわる愛しい人の肩に鼻先をくっつけて深く息を吸い込む。
俺は知ってる。
この肩は結構えぐい球を繰り出すってこと。
俺はなかなか打てなかったんだから。
あの試合で、この人がピッチャーで、俺がファースト守ってて。
この人のフォームはきれいなんだ。
一塁からはそれが良くわかるんだ。
キャッチャーのサイン見る。
ちょっと頭を傾げたり頷いたりして、放る球の最終確認とか。
キャッチャーてのはいいよな……軽く俺は嫉妬してた。
肩の位置にグラブを掲げ、
左足がすうっと弧を描きながら上がって、一塁側に背を向け、
振りかぶって投げる。
あのきれいなフォーム。今でも目に浮かぶよう。
でも、入部したての奴に打たれた。
一瞬膝に力が入らなくなった、あの瞬間を今も覚えてる。

もう少し眠っていたいのに頭は冴えてしまった。
薄く目を開けると、
一志さんは仰向けで、左手の甲を見ていた。

---……指輪……見てる?

黒い睫毛の下、黒い瞳の焦点を、薬指にはめた指輪に合わせていた。
驚いて、思わず息を呑んだけど、
気づかれてはいない。
一志さんは眼鏡をしていないから見えにくいのか、
顔に指輪を近づけて、ただぼんやりと見てた。
俺が薄目を開けて見てるなんて、露程も思ってないみたいだ。
寝起きがすこぶる悪いのを知ってるから。

---俺と結婚したこと、本当は、腹の底では、どう思ってるんだろう?

   ……後悔してるんじゃ……?

俺は柄にもなく、鼻の奥が痛いような感じで、
それでも目を逸らせなくて、息を殺して、見てた。
心臓が早鐘を打って、
体が密着していたら、そう、腕枕でもしていたなら、間違いなく気づかれてる。
目をぎゅっと瞑ったけど、どうしたって見てしまう。
何を思って指輪に見入ってるのか、気になるから。

鼻先の肩が僅かに動いた。

一志さんは、指輪に右手を添えて、
くるっと回して、ふっと微笑んだ。
ちょっと嬉しそうに……指輪を見つめて。

---嬉しいと思ってる?
   俺と同じで?
   同じ気持ちで?

やばい、いよいよ込み上げてきてしまった。
自分で自分の横っ面をはっ倒したくなって、
矢も盾もたまらず、起き上がった。

「一志さん、」

振り仰いだ彼は、涙目の俺にちょっと驚いてる。

「……なに?」
「俺も嬉しい……指輪」
「……お?」
見られていたと気づいて、恥ずかしくなったらしい。見る見る頬が染まった。
「一志さんも?」
「見てたんなら、わかるだろ?趣味わりぃ奴だな、こそこそしやがって」
起き上がりながら、眼鏡をかけた。

「……ごめんなさい」

俺は、見てたことを謝ったんじゃない。
声は振り絞るように震えて、堪えきれなくなった。

「長戸……?」
「……長戸じゃない」
「ああ、淳平、どうした?」
「……ん」
「言ってみ?」
「……昨日……」
とうとう涙が溢れ出た。

俺は泣きながら昨日のことを話した。
係長に言われたこと、俺が言えなかったこと、
同僚に写真見せろって言われて断ったこと。

「俺は、中途半端で、覚悟が足りない」
「そんなのは、俺も同じだから」
言いながら一志さんは、ティッシュで俺の涙や鼻水を拭いてくれた。
「泣くなよ、それぐらいのことで」
しまった、って眼鏡の奥が強張った。
「俺にとっては、それぐらいじゃない」
「ああ、言い過ぎた。ごめん」
「俺は兎に角、覚悟が足りない……指輪、係長に見られて、してこなきゃ良かったって……」
「うん、外しておけばいいよ……もう遅いか」
「嫌だ、外さない。指輪、俺ものすごく嬉しい……一志さんもそう思ってるでしょ?」
「思ってるよ?見てたクセに」
「なのに、俺は……」
アラームが再び鳴って、停止を押した。
「外しておけば良かったって思った自分に腹立つ」
「お前ね、そんな清廉潔白な生き方は、しんどいよ」
「また……」
「?」
「また、そんな難しい言葉で俺を煙に巻こうとしてるでしょ?」
「してねーよ……
 俺、もしも、嫁さんの写真見せて言われたら、いやあちょっとなんて、やっぱり断ると思うよ?
 それは、お前的にはどうなの?」
「一志さんはそれでいい。そうしたほうがいい」
「矛盾してないか?」
「……俺は自分が許せないの」
「お前、頑固だね。俺が許すって言っても、
 いや、許すどころか、最初から怒ってなんかないのに」

「また結婚式呼べって言われたら、嫁がコレで、」
腹の前で手が上下に弧を描く。
「辛いらしくてやっぱ止めましたとかさ……あ、出産祝やるって言われたら面倒だな……
 嘘の既成事実?は良くないか……
 うちの嫁いい年して人見知りなんすよ、えへへ、すんません、って言っとけよ」
悔しいぐらい俺の真似がうまい。
それに、朝なのによく喋る。
朝は特に無口なこの人が。
俺が泣いたから、動揺してるのかも。
「写真はさ、何ならうちの妹の写真でも持っとけば?」
あの一志さんにそっくりな美人の妹さん……
「そこまでしなくていいです。てか、今度見せて言われたら、見せますからね、俺」
「だから、引かれるからやめとけって」
俺も頑固だけど、一志さんも相当だと思う。
それに、俺の言ってることがさっぱり通じてない。

一志さんは、覚悟なんて特にしなくても良いと、
その時その時でへらへら誤魔化していけば良いと言う。
でも俺には、そんなことは、もう出来そうにない。
指輪を見つめて柔らかく微笑んだ、幸せそうな顔を見てしまったら。

「一志さん、寝て」
「はあ?」
「いいから」
「なんで?」
ちょっと押すと倒れてくれた。
「もうこれ、遅刻だろ」
「目、瞑って」
俺は素早く添い寝の体制になる。
「何考えてんだよ」
言いながら目をぎゅっと瞑った。不安そうな顔をしてる。

「一志さんはぐっすり寝ています」
「はいはい」
かなり投げやりな返事だけど、めげない。

一志さんは胸の上に緩く左手を置いてる。
それを手に取り、ゆっくり唇を寄せる。
高校の時はグラブをはめてた手だ。
俺は目を閉じて、うっとりと指輪越しに口づけた。
この人と一緒になれて良かったと心の底から思えて、
また込み上げてきた。
だけど、ちゅって音を出すのは忘れなかった。
「目、開けて」
唇を指輪にあてたまま、ちらと伺うと、
見下ろしてくる目と、目が合った。
「お前は……!」
そのまま耳を胸に当てると、
かなりどきどきしてるのが耳に響いてきて、嬉しくなった。

「見なきゃわかんないだろうと思って」
「勘弁してくれよ……」
寝たまま頭を抱えてる。
「俺がこっそりこんなことしてたらどう?」
「……」
「ね?俺の気持ち……泣いた気持ちわかってくれた?」
「わかったよ」
「俺はさっき見たの。
 一志さんが、指輪をくるっと回して、にこって……」
「言わなくていい……」
「ねえ、まだドキドキしてる」
「うるさい」
「泣いちゃわない?こんなん?
 今の演技じゃないよ?俺、本気だから」
「うん、わかった、わかったから!
 ほら、もう、遅刻するから!」
一志さんは飛び起きた。
いい雰囲気になるとこうやってはぐらかされる。
夜は夜で仕事に響くと拒否られることが多いけど、めげずに迫ると大抵は持ち込める。

「キスしたい」
「……歯ぁ磨いてからな」
「またあ!」

でも、一志さんは、
ベッドから降りる時、振り向きざまに頬にキスしてくれた。
「う、わ」
なんで今は平日の朝なんだろう。
目の前の腰に抱き付きたくなるのを必死に堪える。

「お前が覚悟ってのに拘るなら、俺も付き合うよ」
俺の不埒な思惑を他所に、真面目な声で言った。
「いいよ、一志さんは」
俺も続いてベッドから降りる。
今では俺のほうが背が高い。
やっぱりキスしたくて、髪の中に手を入れようとした時、
顔を覗き込まれ、左手を取られた。

「こうやって、摺り合せていくんだよ、今お前に教えて貰ったよ」

指輪同士を重ねるように握られた。

「噛み合わない意見とか、考えとか?……結婚ってそういうもんだろ?」

この朝二番目の笑顔に、どきどきした。
返事に困るぐらい。

「ほらもう、7時10分だぞ」
「一志さん?」
寝室から出ていこうとしてる背を呼び止める。

「何だよ、シャワー浴びる時間なくなったろうが」
ドアノブに手をかけて、振り返った顔はちょっと不機嫌そうだ。

「俺はもう、夜が待ち遠しくてしょうがない」

「ばかか、働け」

働こう、うん、働こう。
働いた後は、きっと良いことがあるから。













よりぬきお題さん。