暑い暑い溶けそうな真夏の午後、
今日も、猪里の部屋には虎鉄がいた。







向日葵と船







実家からの仕送りだけでやり繰りし、一人で慎ましく暮らしているこの部屋で、
この男はエアコンをつけて、テレビまでつけやがって、
あげく昼食を要求し、タダ飯を食らって、
「猪里のヤキソバすっげウマイッ!ぜっTeー結婚しよーNa♡」
などと非現実的なことばかりのべつ喋っている。
今月は光熱費徴収しちゃーけん……猪里は自分の閃きにナイスやん、とほくそ笑んだ。
けれどその刹那、
冷蔵庫で美味しく冷えている二つのアイスクリームを思い出すのだった。

---俺の好きなとば買ってきたけん、今回は許しちゃー。

どこまでも虎鉄を甘やかしてしまう自分に、今度は苦笑する猪里だった。

「猪里ー、花好Ki?」
虎鉄はテレビから目を離さずに、ヤキソバを頬張りながらもごもご聞いた。
「花?」
見ると、王様のブラ●チでは、近場のおでかけスポットなるものを特集していて、
画面いっぱいに黄色の花が広がっていた。
「ちょっと遠いけどSa、ヒマワリきれいなんだっTe。行ってみNeー?」
「ヒマワリ?……よかっちゃけど、暑いやん」
「何だYoー、男は根性ばい!だRo?」
虎鉄は片方の八重歯を見せ、にひっと笑った。



電車を降り、バスに乗り、
猪里は揺られながら窓の外を見遣った。
景色はどこか懐かしく、郷里を思い出させてくれた。

球児の夏は忙しく、里帰りも儘ならなかった。
先日も父から電話で「いつ帰ると?」と聞かれ、
「たぶん…帰れん…帰れるとやったら、夏休みの終わり頃」と返したばかりだ。
「ちょこっとでん帰りやい」父の不満気な声に少し胸が詰まった。
その時も部屋にいた虎鉄は、電話を切ると、
柔らかく抱きついて来て、無言で頭を撫でた。

実家からの電話は虎鉄を不安にさせるらしくて---

二年生ともなると、一年生の時よりも将来について考えることが多くなる。
十二支を卒業したら、その先は……?
具体的な話は避けて、逡巡して、
でも、それは同時に只の現実逃避に過ぎなくて、
敏感な虎鉄をもっと不安にさせていた。

 不安にさせてるのはわかってる……
 けど、虎鉄だって俺を不安にさせてる。
 自分だけじゃない。

猪里はそう確信したかった。
確信したくて、つい虎鉄の悪癖を挙げ連ねてみたりした。

学校で、下校途中で、そうこんな風に二人で出掛けた先でも、
女の子に目を奪われがちなのは、ドコのダレだったっけ?
五分五分、
そうじゃないのか?
そうなんだよ、虎鉄。
荷が重くなれば、喫水は深くなるよね?
もっと重い荷を積み込むと、どうなるの?
転覆するの?
いい加減な積み方をしていれば、どのみち船は傾くよ?
お前の荷、俺の荷、そのどちらもが、これからもっと重くなるんだ。

……今よりも、ずっと重くなってゆくんだ……。

猪里はいつもそこで考えるのを止めた。
横に座る虎鉄に気取られないように、今も窓の外を眺めて、
流れ行く緑に心を奪われている振りをした。

バスを降りると、盛夏の光と熱が降り注ぎ、
地面からも照り返し、酷く暑かった。
猪里の鼻先を緑の匂いが掠め、
一つ深く肺一杯にそれを吸い込むと、懐かしい土の匂いまでしてきた。

虎鉄はと言えば、ひまわり畑がある農園まで歩きながら、
鼻歌まじりでご機嫌な様子だった。
「猪里とデート♡」
「デートとか言うな」
「だって、デートJaん」
「俺男やん、デートやなか」
「デートったRa、デートなNo!」
「デート違うし」
「猪里~!」
虎鉄はたしなめるように名を呼んだ。
猪里が素直になれないのは今に始まったことじゃない、
虎鉄もそれはわかっている筈なのに、
気がつくとこんな会話は交わることは無く、いつだって平行線を辿っていた。
「ホラ、オレらぐらいの奴らも来てるZe!」
「あの人らはデートやんね」
自分達と同い年ぐらいの男女が指を絡ませ歩いているのを見て、
猪里は根本的に違うのだと思う。
「だからオレらもデートなNo。なにも違ってないNo」
「あほ」
不毛な会話を繰り返すうち、目的地に辿り着いた。
入場料を払ってゲートをくぐった。


「わぁ!凄かねえ!」
向日葵の群生に圧倒される。
塀越しに垣間見えていた黄色の花は、間近で見ると丈高く迫力があった。
「ヒマワリばっかだNa」
「当たり前ばい!俺らチューリップ見に来たんやなかもん」
「また可愛くないこと言っちゃっTe」
「ふん……な、あそこ喫茶店やろや?」
猪里が指し示すサックスブルーの幌を張った建物は、喫茶店であるらしかった。
「俺、腹減ったとよ」
「猪里ちゃん、花より団子なんですNe……」
「当たり前やろーもん、虎鉄、行くじぇ!」

着くなり喫茶店に引っ張り込まれて、少し面白くない虎鉄だったが、
冷房の効いた店に入り、向かい合って座るや、目前の光景に目を奪われた。
猪里は大きなガラス窓を背にして座っていた。
その後ろには向日葵が咲き乱れ、少し薄暗い虎鉄の席から見ると、
「涼しかー」と和んでいる猪里の笑顔は、まるで向日葵に同化しているように見えた。
でも、そんな絵のような光景に、ほわっと幸せを噛み締めるのも束の間で、
愛しいそのアンジェリックな笑顔の持ち主は、
メニューを睨みながら何をチョイスしようかと気忙しく、
自分が決めてしまうと「まだ決まらんと?」と急かすものだから、
虎鉄はあまり考える余裕も無く、サンドイッチとコーラに決めた。

猪里が注文したカレーが運ばれてきた。
それはドーナツ型に抜いた黄色いサフランライスの中にカレーを流し込んであって、
レーズンやチーズやフライドオニオンが散りばめられ、
その名もヒマワリカレーという代物で、お店のおすすめだった。
「キレイかねぇ、何や食うの勿体なかよ?」
運ばれて来た時こそ、目を輝かせた猪里だったが、
次の瞬間にはガツガツ食べ始めて、綺麗に平らげてしまった。
そして今は、アイスティーを飲みながら大きなパンをもぐもぐ頬張っている。
その相変わらずな食欲に、虎鉄は呆れながら聞いた。
「よく食うNa。旨いKa?そのパン」
「うん、旨かよー、ヒマワリの種と胡桃の入っとっと」
「タネ~?ハムスターじゃあるまいSi」
「殻は剥いてあっとよ」
「ふーん……Oh、ヒマワリの種って、
 ビタミンB1やB2、Eなどが豊富……なんだとYo」
虎鉄は入場した時貰ったパンフレットを読み上げた。
「へえ、B1って確か疲れによかっちゃないと?」
返事は返って来ない。
猪里は自分が言ったことに反応を示さないなんて、
珍しい事もあるもんだ、と虎鉄を見遣るものの、
頬杖をついた彼は、パンフレットを黙読しながら感慨深げに頷くのに忙しいようだった。
「何か面白いこと書いてあると?」
「……N?うん、いいこと書いてあっTa」
「なん?」
「ひ、み、Tsu」
「勿体付けてからに、あやしかー」
「後で教えてやるYo、バッチリなロケーションでNa」
「何ね、それ?意味わからんたい」
猪里は腹もそろそろくちくなり、千切ったパンを持て余し、
その一片を虎鉄に差し出した。
「食う?」
虎鉄は頬杖を付いたまま食い付き、
無防備な指先に素早く、ちゅっと音まで立てて口付けるのを忘れなかった。
「ッ!」
油断も隙もない奴と咎めようとして、
見詰めてくる真摯な瞳に、猪里は何も言えなくなった。

小さな冊子が虎鉄に教えてくれたこと、
それは向日葵の花言葉だった。




早めな昼食の後、隣の店舗を覗くとお土産を売っていた。
虎鉄は目に止まった麦わら帽子を手に取り、傍らの猪里に被せてみた。
「カワEー!」
今日、猪里はノースリーブのシャツに7分丈パンツを履いていて、
麦わら帽子は、手に鍬を持たせたいほど似合っている。
「可愛いやら言うな!」
頭から帽子をむしり取ろうとして、猪里は気が変わり被り直してみた。
「な、コレ買うて?」
「オレGa?」
「外暑いやん?お前バンダナしとぅちゃけど、俺何も無かもん」
「Nー……、」
「俺熱中症になるかもしれんばい」
「ワラで出来てるクセに高ぇNa……」
「なーぁ、虎鉄、」
虎鉄とて小遣いに余裕がある訳でも無かったが、
自分が何かやらかした時、丸い目を三角にして容赦なく奢らせる猪里が、
今日は珍しく上目遣いで、
それも被った帽子のつばを両手でちょこんと摘んで、お強請りしたりするから、
財布の紐は俄然緩んだ。
「いいZe」
レジで支払うと、猪里はにっこり微笑んだ。
「ありがと、虎鉄」

外に出ると、鮮やかな黄色が目に染みるようだった。
「猪里、ルフィみTeぇ」
「そう?」
「うん、似合ってRu」
「ゴムゴムのぉー、」
「He?」
「ピストルッ!」
いきなり脇腹に拳を食らい、虎鉄は前言撤回!と叫びたくなった。
しかし帽子を買って貰ってご機嫌な猪里は、まだヤリ足らないらしい。
「ゴムゴムの、えーと……、」
「も、もういいかRa!」

そうこうしながらブラブラ歩いていくと、
パンフにも謳ってあったことだが、ヒマワリで造られた迷路があった。
「迷路だってYo。入ってみRu?」
同じ年位の女の子達も、挑戦しようかどうしようかなどと相談しているみたいだ。
「うん、よかよ」
掲げてある説明書きを読むと、どうやら中でスタンプを押して帰ってくるらしい。
「あれに押すのKa?」
パラソルの下にやる気のなさそうなバイトの少年が座っていて、
その前には葉書ぐらいの大きさの紙が置いてあった。
「虎鉄、」
猪里はなぜかバイト少年を急かすようにその紙を貰った。
「なんDa?」
「どっちが早ぅ帰って来れるか、競争しよーえー!」
背を向けたままそれだけ言うと、
振り返りもせず、あっと言う間に向日葵の中に消えた。
「猪里、ちょ、待てYo!」
虎鉄も紙を片手に後を追ったが、猪里の気配は早くも消えていた。
「はえーYo!」

おおっぴらに指を絡ませて歩くなんて出来ない自分達だから、
向日葵の連なりに紛れてそうしたかったのに、猪里は一人で行ってしまった。
「オレ、競争なんてしたくねーYo……」
呟きが零れ、しかしいつまでも入り口付近でうろうろしていても埒は明かなかった。
こうなりゃ見つけるまでSa!と息巻いて虎鉄は後を追った。

なんとか物見やぐらまで辿り着き、登ってみると広大な迷路が見渡せた。
「広ぇNaー……」
手をかざしきょろきょろ探す。
「お、いTa!」
十時の方向辺りで、花と葉の中で見え隠れしているのは、
先ほど買った麦わら帽子だ。
直ぐにでも呼び止めたかったが、大声で名を叫ぶのは躊躇われた。
「あんま動かないでくれYo!」
虎鉄は階段を駆け下り、最後の三段は飛び降りて走り出した。





 向日葵の ゆさりともせぬ 重たさよ

北原白秋の歌集は、中学の時読んだ。
兄の書棚にあったものだ。
今360°向日葵だらけの中にいて、この句を思い出し、ふと思う。

重たさ……か、
向日葵は何を負っているのだろう?

子供達が歓声を上げながら猪里の脇をすり抜けていく。
右に行ってみて、行き止まり、左に進んで、また選択を迫られる。
次は?
……どっち?
思いの外ややこしい迷路だった。
難攻不落とまでは言わないが、かなりの難敵と言わざるを得ないだろう。
部活で鍛えてはいるものの、先が見えないというのはこうも人を消耗させるものだろうか。
じりじりと照りつける太陽も判断を鈍らせているのかもしれない。
猪里は疲れて、並んだ向日葵の間をとぼとぼ歩き、
一人で来たことを後悔した。

虎鉄を待たずに駆け出したのは---

入り口で、窺うように虎鉄を見ていた女の子達の所為。
虎鉄も気づいて、彼女達三人をちらっと見た。
だからって弾かれたピンボール玉のように走り去ることは無かったのに。

一緒にいたい、転覆させたくない、
そう願っているのに、
波を受ければ、忽ち逃げ出す自分が情けなかった。

---俺はどうかしとっと……

スタンプを押す筈の紙も失くして、
猪里は独り言ちた。





「猪里!」
曲がろうとした、その切れ目から虎鉄は現れた。
「あ、」
「探したZe!」
抱きつかれる……身を躱そうとしたけれど、遅かった。
案の定ぎゅっと抱き締められ、抗った。
「誰か、来るけん、」
「来ねーYo」
無遠慮な手によって跳ね上げられた帽子は、地面に落ちた。
「っ…、」
荒く口付けられ、体は強張る。
「探しTa」
「聞い、た」
『待っていた』
と言いたかったのかもしれなかった。
「猪里、」
欲するまま口付け合うと、籠った力は抜けていった。
「先に、行くなYo」
甘い咎めがキスの合間に紡がれて、
「……ん」
唇は離れ、目を覗き込まれた。

「置いてけぼり、やDa」

拗ねたように吐かれた言葉に、波立った。
一年か一年半それぐらい後、また聞くことになるのかもしれない、
その時、その波はもっと高くなるはず。

「ばってん……、」

---お前には、ヒマワリんごつ女の子が似合っとぅよ。

言いかけた続きを飲み込んで、目を伏せた。

虎鉄は置いて行くなと言った。
なのに、自分は今、何を言おうとした?
素直な情を、似非な思い遣りにすり替えようとした。
そう吐き出してしまえば、楽になるから。
自分の荷が軽くなるのは、確実だから。
卑怯で、最低で、
落ちた麦わら帽子を見詰める事しかできなかった。



「私はあなただけを見つめる」


いきなりな上に余所行きなその言葉は、さっぱり意味が分からなかった。

「え?」

目を上げると、アーモンドの目が笑った。

「ヒマワリの花言葉」

「花…言葉?」

「オレ、猪里しか見ないかRa」

男の自分に花言葉なんて……
くすぐったくて。
でも、いつもみたいに、からかったり吹き出したり出来なかった。
虎鉄らしくて好ましかった。
向き合えば、形の良いアーモンドの目は笑ってる。
意固地な自分を溶かしてくれる、大好きな目だ。

花を隔てた隣道から、女の子達の楽しそうな声が聞こえてきたけれど、
もう揺らいだりしない。
虎鉄は自分だけを見ると言っている。
それで充分だった。

「なして、わかったと?」
「だって、猪里ちょっと悲しそうな顔したかRa」
「………そっか」
「オレいつでも猪里を見てるんDa…わかってRu?」
「そいは、わかっとると」
今日だって、実家に帰れなくて不貞腐れ気味な自分を、花畑に連れ出してくれた。

「猪里を愛してるかRa」
よく言われる言葉。
虎鉄が何と言って欲しいのか、そして、自分は何と言いたいのか、
分かってはいたけど、言えなかった。

「ありがと」

「お礼じゃなくTe、猪里?」

低目な声で、こんな風に諭すように囁かれると、弱かった。

「……俺も……、」

居た堪れなくなって、虎鉄の肩に額を載せた。

「N 、ゆっくりでいいYo」

頭を撫でてくる手が優しくて、泣きそうになった。

「……好いとぅよ」



荷がどんどん重くなって、傾いても、
此奴となら、立て直せるんじゃないかな?

先の見えない航海になると思う。
どうにも立て直せなくなって、沈んでしまうかもしれない。
そうだな、
沈みそうになったら、
いらない荷物は海に捨てちゃえばいいのかも。

そして、沈まずに海原を行くことが出来たなら、
港に上がる日がいつか来るだろう。
それがいつなのか、今は未だ分からない。
でも、
先に荷を降ろすのが、どちらになろうとも、
忘れないようにしよう。
酷く暑かったこの日を、
虎鉄が自分だけを見るって言った一瞬を、
真っ直ぐな瞳を、

 ずっとずっと忘れないようにしよう。


虎鉄の肩越しに向日葵を見上げる。

風がその上を撫でてゆく。

大輪の夏の花は、来年も、その次の年も、ずっと揺らめくのだろう。














’04.10.8 初出