「どげんしよ……」
腕時計に目を遣るともう8時を廻っていた。
猪里は帰りたかったが、帰れないでいた。
窓の外は大雨で、傘も無く、
一人コーヒーを飲んでいた。
春時雨
ここは埼玉のとあるファミレス。
平日なので、夕食時の割に家族連れは少ないようだった。
隣の席では、少し年上に見受けられる少年が3人、話に華を咲かせていた。
今日は引っ越しだった。
業者が荷物を運び入れたのは、予定の時刻をかなり過ぎてからだった。
今にも届くだろうかと思うと、
ちょっとコンビニまでという訳にもいかず、
何も無いガラーンとした静かな部屋で、空腹を抱え、
文庫本を読みながらひたすら待った。
そんな訳で一人暮らしの部屋に、布団や小さなチェスト、
ダンボール箱などが収まる頃には、空腹のあまり目眩がする有様だった。
遅くなったことを再度詫びながら、引っ越しの業者が帰ると、
猪里はこれから暮らす街に出てみた。
雨が降りそうな予感がしたが、
傘はまだ箱の中で、荷解きしている余裕は無いと、腹の虫が訴えた。
財布をジーンズのポケットに入れて、外に出た。
危うく鍵を掛けるのを忘れるところだった。
実家では殆ど掛けたことが無かった所為だ。
3月も終わり頃の夜風はやはり冬のそれとは違い、春の甘さを含んでいて、
少し気分が良くなった。
−−−ここはスーパーやね。割と大きかねー。
隣は……本屋やね。
歩きながら、買い物に便利そうな店などをチェックする。
−−−ここはコンビニか……
適当に弁当でも買って帰ろうかと思ったが、
箱だらけの部屋で一人弁当を食べる気にはなれず、
また歩き出す。
暫く歩くと、件んのファミレスに行き着いた。
これ以上歩きたく無かったので、夕食はここで取ろうと決めた。
一人で入るのは気が引けたが、ちゃちゃっと食べてすぐ帰ればよかとよ、
と思い立ち階段を上がった。
ただ咀嚼して嚥下するだけの食事は想像以上に味気無かった。
−−−こげんとこやっぱ一人で来るとこや無かね。
いつの間にか降ってきた雨は止みそうに無いばかりか、
ますます酷くなってきている様だった。
隣の少年達のうち一人が携帯で話している。
車で迎えに来て貰おうという算段らしく、此処の場所などを伝えている。
「来るってYo!」
その声に「ありがてえ〜」などと控えめな歓声が上がる。
思案に暮れる。
暗めなオレンジ色の照明の下、頬杖をついて。
もう少しで読み終わるところだった文庫本を持って来なかったのが悔やまれる。
−−−いや、本より傘やろう……
香りの飛んだコーヒーを半分以上残して、
トイレに立ち、席に戻ると隣の席はもう無人だった。
−−−俺も帰ろ。濡れるやろうばってん、しょんなかたい。
会計を済ませてドアを押すと、すぐ後ろに人がいるのに気づき、
閉まろうとするドアを、一瞬押さえた。
自分に続いて通れるように。
−−−うわぁ、酷か雨たい。
外に出てはみたものの、大粒の雨に怯み、
慌てて階段を下り、店舗の下の駐車場に駆け込んだ。
隣席だった少年達が居た。迎えの車を待っているらしい。
何か話しては笑いあって楽しそうである。
一人がチラとこちらに視線を送ってきた。
頭に派手目のバンダナを巻き、細い体の。
「君、傘無いの?」
振り返ると先程猪里に続いて店を出た人物が立っている。
20代半ばか、もう少し上かもしれない。
スーツをきちんと着ているところを見ると、
会社帰りだろうか。
上背があるので、猪里は見上げる。
「俺、車なんだ。送るよ? 家どこ?」
「あの、近かけん、よかです」
「ひょっとして君……九州の方なの? 俺、山口なんだ~
大学がこっちでさ、そのままいるんだけどね。
雨、止みそうに無いよ?
君さえよければさ、どっか行かない?
話したいな~ 田舎も近いことだし」
---田舎が近かけんって、なして俺がアンタとどっか行かんばいかんとや?
理解に苦しむばい。
一台の車が、路肩に溜まった水を派手に跳ね上げ、
ガードレールに擦りそうな勢いで止まった。
するするとウィンドウが降りる。
「大河~~~!」
「Ge!? 姉ちゃん……」
「早く乗んなさいよ!」
「母さんWa?」
「ビール飲んじゃったからダメだってさ~……ってそこの2人も?!」
「そうなんだけどSa……免許取ったばっかじゃNa……」
と、連れを見遣る。
「乗ります!俺、虎鉄の姉ちゃんとなら心中してもいいです!」
「馬鹿言ってないで早く乗ってよ」
彼らは小走りで歩道を横切り、
「お邪魔しま~す☆」などと言い乍ら、ドアを開けている。
「イヤなら無理にとは言わないよ?送るけど?」
「いえ、ほんと、」
---ほっといて欲しか。
「大丈夫ですけん」と言い放ち、猪里は雨の中へ走り出そうとした……
が、
いきなり腕を掴まれてしまった。
「濡れちゃうよ?」
男の声は優しげだが、苛立たしげな口調だった。
「放してくれんね……!」
「おっさん、いい加減にしろYo」
何時の間に近づいていたのか、
バンダナの少年が男を睨み付けながらその手を引き剥がした。
そして素早く猪里の手を取り、車へと駆けた。
ばらばらと雨が体に降り注ぎ、スニーカーが雨水を跳ね上げた。
「ちょっ……!!!」
「お前も乗れYo!」
言うなり、後部座席に押し込められた。
本人は助手席に乗り込むと、
「家どこDa?送ってってやるZe」などと聞いてきた。
「ええ?」
「遠慮しなくていいZe」
「そんな……ばってん、降ろしてくれんね?」
隣の二人がどこの方言だ?と言うように、顔を見合わせる。
「いいよ、送ってってあげるわよ。何処?まさか九州?」
「いや、○○町やけど」
「Hahah~n、すぐそこじゃんKa、ひょっとして、夜通しドライブKa?と思ったZe~」
と、屈託無く笑い、運転席に向かって軽口を叩く。
「一人増えたってことDe、安全運転ヨロシク☆」
その少年(名は虎鉄大河というらしい)の姉の運転はかなり凄かった。
彼女がアクセルを踏み込むと、体が仰け反った。
「こんな乱暴な運転じゃ、彼氏に逃げられるZe」
「うっさい」
「あの……そこん信号を右折せないかんばってんが……」
「ええ?右折ぅ~? 勘弁してよぉ!」
「そろそろ車線変更した方がよくねえKa?」
「わかってるってば!」
かなり余裕の無さげな運転に、車内は緊張に満ちたが、
それでも何とか猪里のマンションに到着した。
車から降りるとき、ぺこりと頭を下げて
「どうも、ありがとうございました」と礼を述べると、
虎鉄の屈託無い声が返ってきた。
「いいってことYo、じゃあNa~」
雨に煙る街灯の下、やや吊り上がり気味の目が一瞬愉しそうに煌めいた。
あちこちにぶつかりそうになり乍ら、
切り返しを繰り返し、車はやっと方向を換え走り出した。
部屋に入り、灯りを付けると疲れがどっと押し寄せてきた。
---あげな運転で無事に帰れるとやろか?
ちょっと可笑しくなって口元が緩む。
---ばってん、よか人達やった。
上京一日目は暖かな気持ちで締め括ることができそうだ。
外はまだ篠突く雨が降っているけれど。
2003.9 初出