猪里は、家まで付いていくと宣う虎鉄をどうにか追い返し、
一人の部屋に帰ってきた。
鞄とスポーツバッグをどさりと置き、
冷蔵庫を開け、麦茶をコップに注いで飲んでみても、
気持ちは落ち着かない。
---俺、キスされたと……頬に。
コップをテーブルに置きながら、ぺたりと座り込んだ。
頬に、だった。それも軽くだった。
それでも猪里にとっては、少しばかり刺激が強過ぎた。
---まだ、ふわふわすると……
冷めない熱 [side猪里]
9月初めに起きたとあることがきっかけで、
虎鉄が自分に気があるのは、実は、わかっていた。
それは、猪里にとってかなり強烈な出来事だったので、
意識しないでいるのは到底無理だった。
廊下ですれ違う時、部活の時、
今日のように一緒に下校する時、
「俺を好いとうっち、ほんなこつ?」
「なして、俺を?」
「友達としてやのぅて?」
といった決して声には出せない問が、
頭の中をぐるぐる回っていることは何度もあった。
虎鉄が女子と親しそうに話している、
そんな場面を見掛けるのはしょっちゅうで、
そんな時は、
『やっぱ、違うやん?俺とかやないやん?普通に女子が良いんやん?』
と、疑念が湧き上がり、
あれは、あの出来事は、何かの間違いだったのだと思い込もうともしていた。
きっと、間違い。
そうに決まっている。
虎鉄が自分に気があるなんて。
しかし同時に、女子と親しげな笑顔を残念に思う自分がいて、
間違いであって欲しいのか、欲しくないのか、よくわからなくなっていた。
虎鉄が寄せる恋慕を否定してみたり、女子に向ける笑顔を残念に思ったり、
自意識過剰にも程があると、自嘲してみたり。
こんなことに悩まされるのは始めてで、
どうしたら良いのかさっぱりわからないでいた。
ただ一つわかっていたのは、
自分が「知っている」ということを、
決して虎鉄に気付かれてはいけない、ということ。
大丈夫、知られなければ良いだけのこと。
普通に接すれば良いだけのこと。
そうして何食わぬ顔を作って日々をやり過ごしていたら、
虎鉄のことだ、自分のことなど忘れて、すぐに彼女を作るだろう。
「虎鉄の彼女」なんて自分には関係ないことだ。
何故だかちりりと胸奥を刺激はされるけれど、元々関係ないのだ。
彼女ができたと報告でもされたら、「良かったやん」と言ってやれば良い。
……そう言い聞かせて。
なのに、自分の気持ちに気づいてしまった。
同じクラスのFさんが虎鉄に告白して断られたと噂で聞いたとき、
「良かった」と安堵したのだ。
こんな風に思うのは、おかしい。
打ちのめされたような気がした。
そればかりか、虎鉄が女子と話しているのを見かけたりした時、
彼女たちに対して、少しばかりの優越感を覚えるようになってしまった。
「そいつは俺のことが好きげなよ?」などと思ってしまった。
少しばかりとは言えそんな感情は、猪里を後ろめたい気持ちにさせるには充分だった。
あの時からだったのだろう。
悟られないようにすべき事柄に「虎鉄への気持ち」が加わったのは。
そうしながらも、
虎鉄は「知らない」のだから、
優位に立っているのは自分なのだと、何となく高を括ってもいた。
高みから見物をしているような、そんな卑怯な気分でいたのだ。
それ故、
万が一にでも告白されるようなことが起こったら、
余裕で対処できると思っていたのに。
「猪里が好きDa!……マジだかRa……!」
と堰を切ったように放たれた声、
真剣な眼差し、
「何が無理なんDa?」と聞かれながら、
腕に食い込んだ指の力強さ。
虎鉄に牙を剥かれたような心地さえした。
「其奴もな、同じ気持ちかもしれなかよ」
などと中途半端なことを口走って焚き付けたからだ。
小さな燻りが、全力で疾走するうち、消せはしない焔となった。
虎鉄も、自分も。
降りかかる焔、内から吹き上がる焔、
その二つの焔に焼かれて、
焼け付く喉をどうすることもできずに、ただ、
頭を振ったり、頷くことしかできなかった。
余裕なんてこれっぽっちもなかった。
空気の重さに今更気づいて、猪里は立ち上がり、窓を開けた。
そう、この場所に立っている時、
「猪里ちゃん」などとこそばゆく呼ばれ、振り返った。
あの時の柔らかい目元を思い出す。
---「付き合う」っち言うても、どげなことをするとかいな?
……でーととか?
頬がカッと熱くなるのを感じる。
---ばってん、二人とも男ぜ?
虎鉄はその辺り、どう思っているのだろう?
---周りにバレんごとせな……
油断できらんよ。アイツすぐあげなことしよらすけん。
左頬を掠めていった唇の感触が、まだ頬に残っている。
---虎鉄は、気持ち悪ぅなかったっちゃろうか……?
俺は……男なんに?
---……俺は?
俺は……なんかなし、ふわぁってなった……
……今もたい。
火照った頬を、早鐘を打つ心臓を、
どうすることもできずに暮れていく街を眺めていたら、
携帯が鳴った。
---うわわわ!
慌ててズボンの尻ポケットから引き出した。
着信画面には、「虎鉄」の文字。
---びっくりさせんでよ、もう……!
「……はい?」
「猪里?何してTa?」
---お前のことを考えとったげな、言えるワケなかろーもん。
「う、うん?晩ごはんの……準備……」
---は、これからしようっち思うとったと。
「早くNe?」
「早ぅなか!腹減ったけんね……なんか、用のあると?」
「……声……聞きたかっTaだけ」
---声?!
声て!何て、何て、返せばよかと?!
「そう……なん?」
「うん、それだKe。じゃ、また明日」
「……うん、明日」
「そうDa 、明日からいっつも一緒に帰Ro?他のヤツ抜きDe」
「……よかよ」
「やっTa!じゃ、明日」
「うん、明日」
携帯を閉じると、黒く艶光る鏡面に自分の顔が映り込んでいる。
---……俺、何、のぼせとう、おかしか……
余裕があるのは、自分のほうだった筈なのに。
---はぁ、もう、ありえんけん。
悟られないように、表層を突き破らないように、
毎日毎日、来る日も来る日も、踏ん張っていたのに、
今日で全部覆されてしまった。
---まるで、逆転ホームラン打ち込まれたごたる。
面映くって仕方ない。
明日からどうなるのだろう。
猪里はわからない。
どんな顔して会えば良いのだろう。
よりぬきお題さん。