「虎鉄、もうお終いにせんば……」
それが最後の言葉。
6月15日、台風で。
猪里はくるりと背を向け、傘を広げた。
去っていく背中、小さくなっていく。
言いたいことがある筈なのに、
「待ってくRe」って呼び止めたいのに、
あんな、全ての感情を削ぎ落としたような顔を見るのも、
抑揚のない声を聞くのも初めてで、
オレは声の出し方すらも忘れたらしく、名を呼ぶことも出来ずに、
凍り付き、
馬鹿みたいなことを考えていた。
---あの傘はオレが選んだ。
猪里はパクられたのと同じ紺色のを買おうとしたけど、
「こっちのが似合うZe」って水色を勧めた。
「そう?」って猪里が広げると、
思ったとおり顔映りがよくて、そう言うと、
「やったら、これにするばい」ってふわっと微笑んであれを買ったんだ。
猪里はいつもそう。
着る物なんかは、食べ物ほど拘らないで、オレが勧める物にさっさと決めてしまう。
ちょっとは悩めYoって思うくらい。
猪里、
大好きなのに。
ザァァァ……
どうして、ここまで拗れたんだろう?
何が、オレ達をこうも遠ざけたんだ?
下校時のごった返す玄関口で、
見送ることしかできなくて、喉には鉛がつかえたよう。
校門の向こう、シルバーメタリックのボディは降り注ぐ雨水を弾いていた。
ウィンドウが降りて、
中の男が猪里に合図して、
水色の傘は閉じられ、持ち主は乗り込んだ。
---え……?
見せ付けられた親密、
突き付けられた現実。
スーツを着た爽やかな笑顔---
鼻の奥に込み上げる、つんとした痛みが。
---泣いてしまうのか、オレは……こんな……ところで?
「虎鉄……大丈夫か?」
長戸の声がすぐ傍でしてる。
願わくば、一人にして欲しい……みっともない振られっぷりを見ないで欲しい。
まるで力が入らない足はオレの足じゃないみたいで、
それでも、それはオレを前へと押しやった。
気が付くと、雨の中、叫んでいた。
「猪里ーー!」
一週間前の朝、
猪里の部屋で見つけた薔薇の飾りが付いた綺麗なヘアピン。
チェストの上にちんまりと置かれていた。
「猪里も隅に置けないNa、コレ誰のだYo?」
「ああ、」
猪里に限ってそんなことはないと信じてたから、
冗談めかして聞いてみただけだったのに。
「秘密たい」
含みのある言葉、顔付き……何故だかトサカに来た。
いつもなら軽く受け流す場面でだ。
オレの恋敵は男女問わず多いっていうのは、
当の本人が知らないだけ。
知らないっていうのは別に罪じゃない。
けど、猪里は誰彼にでも無防備な笑顔を振りまいたりするから、
付き合ってるオレはそんな呑気さにイライラさせられることが多くて。
癪に障って、つい声を荒げた。
「どーせ、教室にでも落ちてたんだRo?」
「違うばい」
「じゃ何Da、女連れ込んだんDa?」
「何ね?連れ込むって。お前と一緒にせんで欲しか」
「Hah、オレそーいうのはとっくの昔に卒業したんだZe、猪里知らないみたいだけDo」
「それはそれは、どうも、知らんかったよ」
「言えYo、誰のだYo!」
「お前には関係なか!」
「ちっ!」
たった、それだけ。
売り言葉に買い言葉ってヤツ。
部屋を出て、学校へ向かったけど、
言葉もなく、
朝っぱらから蒸し暑い空気だけが纏わり付いて、不快で。
ガシャッ!
イラついたオレは自動販売機脇のゴミ箱を蹴って、派手に凹ませたんだ。
「物にあたるげな、最低たい」
それが、最後から三番目に聞いた言葉。
台風が東海地方に上陸したらしい。
早朝に連絡網が回って来て、今日は休校になった。
二度寝を決め込んで後、今に至るんだけど、
今何時だ?
ニュースではリポーターが合羽着て眼鏡まで飛ばされそうになりながら、
どこかの海岸で台風中継の真っ最中。
---ごくろーだNa。
外は雨風ともに強いらしく、時折雨水が窓硝子を打つ音が響く。
オフクロは仕事に出掛けた筈、
姉貴は彼氏と半同棲中で居ないも同然。
だけど、今日は居るのか居ないのかわからない……隣から物音は聞こえない。
たぶん昼はとっくに過ぎてる。
首を廻して時計を見るのも億劫だ。
TVのリモコンボタンを押すのに全エネルギーを使ったんだな、きっと。
腹が減ったような気もするけど、
面倒だし、寝よ……。
目を瞑ると、水色の傘が、雨に煙って遠ざかる……
ここ一週間は部活もそこそこ遊んでた。ダチと、あと女の子達と。
家ニハ誰モイナイノ……甘く誘われるまま、でも、既の所で逃げた。
チェリーじゃあるまいしブルったワケでも、猪里に操立てたワケでもないんだけど。
据え膳食わぬは男の恥ってか?
恥なもんか、食えねー時もあんだYo!ってのは、
女の子に恥かかせて逃げたオレの心の叫び……みたいなモノ。
翌日の部室で猪里から浴びせられたのは、
鳩尾への拳と、
「こん半端モンがっ!」っていう最後から二番目の言葉。
浮気って言える程の浮気じゃなかったけど、前日のがバレたのか、
それとも、畑の仕事をサボってることを言ってるのかオレには分からなかった。
キレたオレは長戸や他の奴に抑え付けられて、睨み付けることしか出来なくて、
最早修復は不可能だと悟った。
外はざんざん大雨、カーテンもぴったり閉じて、
それでもこの部屋は、オレには明る過ぎるくらい。
瞼に腕を押しあて、奥歯を噛み締めた。
……恋人はもういないんです。
昨日こっぴどく振られました。
現実なのかな、これは。
明日は……土曜か……練習あるよな……
きっと、何でもないような顔して出て来るんだ……彼奴は。
何もなかったみたいな顔して、長椅子に座って手にテーピングして。
強いから、猪里は。
……顔に似合わず。
こう言うと決まって怒るんだけど。
もう一日台風が居座ればいい。
ってか居座ってくれ、お願いだ。
迷走してくれたら、もっといい。
オレは晴れてフリーです。
誰か、カノジョになって。
そうだね、初めはオトモダチから。
誰と弁当食えばいい?
そろそろ期末試験だ。部活は休みになるから、
ちょい救われる……筈。
おいおい、試験に救われるって、そりゃどーしたことだ?お笑い種だぜ……
……なあ……、
誰に古文教えて貰えばいい?
誰と柔軟するんだよ?
誰か、話しだけでも。
メールでもいい、
……淋しくて死にそうです。
のろのろとベッドから這い出て、音を消したままの携帯を拾い上げ、開いた。
着信、結構ある。
---Phew、どこの子猫ちゃんかNa?
Oh、あのコか、やっぱ慰めてもらっちゃおーかNa?
3件目は……猪里猛臣。
心臓が早鐘を打ち、アドレナリンが体中を駆け巡る。
急いでプッシュ。
「オ掛ケニナッタ電話ハ現在電波ノ……」
適当に服を着て、洗面所に駆け込み、何やかや整えて、飛び出した。
大きな雨粒がばらばらと傘を打ち、
柄を握りしめても、風圧に負けそうになる。
電車乗って降りて、急ぎ足で、時々走って。
マンションの階段を駆け上がって、
辿り着いた馴染みのドアの前。
インターフォンを鳴らそうとして、気付いた。
仲直りの電話だと勝手に決めつけて、逸る気持ちで飛んで来たけど、
聞く羽目になるのは、更なる別れの言葉だったり……して……?
---馬鹿じゃねーKa?オレって。
ええぃ、儘よ。
ピンポーーーン……
---それならそれで、オレを痛め付けるがいいSa……
二度と立ち上がれなくなるまでNa。